月の影 影の海(2)
第二章
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〈あらすじ〉
月の影を通る道中で投げ出された陽子は、ケイキらとはぐれ、ひとり砂浜で目を覚ます。そこが異世界であることを認識しケイキを捜すために人に声を掛けるが、海客として捕まってしまう。県庁へと護送される途中で妖魔に襲われながらも、剣を手に生き延び、林の中をあてもなく彷徨う。
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砂浜で目覚めた陽子は自分が赤い獣に変化していくという幻(夢?)を見るが、この場面には陽子が胎果であることがわかる描写がある。
まず、一つめ。
"濃く潮の匂いがする。潮の匂いは、血の匂いに似ている、と陽子はぼんやりそう思った。人の身体の中には海水が流れている。だから、耳を澄ますと身内から潮騒がする。そんな、気がする。"
景麒や妖魔、つまり異界のものたちが登場する場面で漂っていた潮の気配を、陽子は自身の内側から感じている。陽子が本来"こちら側"に近い存在であることが表現されていると考えられる。
そして、二つめ。
"…次いで自分の身体を検めて、よくも怪我をせずに済んだものだと思う。細かい擦り傷は無数にあったが、怪我と呼べるほどの傷は見当たらなかった。ついでに、何の変化もない。"
なぜか丈夫になってしまった陽子だが、これは景麒とすでに主従契約を交わし、後に六太が言うように「ほとんど王」状態になっていることの表れである。神仙かそれに近い不死身の肉体だ。
これはおまけだが、続編を読んでから読み返すとおいしいポイントがここに。
"ケイキは「捜した」と言っていた。きっと彼は主を捜していて、何か重大な間違いを犯してしまったのだ。"
泰麒の過ちを知っている読者からすれば、「間違えることはないんだよなぁ、それが」と微笑んでしまう。なんでこういう仕掛けができるのか、小野さんは。
陽子が流れ着いたのは巧国の配浪(正確には巧州国淳州符楊郡盧江郷槇県配浪)だが、どうやら巧の情勢が怪しく思える描写を見つけた。
"大きな水槽の、水の底で眠りについた廃墟のような街だった。"
"赤く塗られた柱、鮮やかな色の装飾、なのにどこか空々しい感じがするのは街の雰囲気と変わらない。"
このあたりの街の表現は、活気とは真逆な感じ。廃墟のよう、というのも、もしかしたら妖魔を恐れて外出を控えているのかもしれない。
陽子が長老に問われてポケットの中の物を出す時の
"並べてみせると、老婆はどういう意味なのか、頭を振る。溜息をつくようにして机の上の品物を着物の懐に収めた。"
という反応も、賄賂を求めたような気がしてならない。直前に人払い(侍女を下がらせただけで人払いとまでは言えないか)もしているし。
さて、ここからが陽子の巻き返し。一介の弱い高校生だった陽子が、強くたくましく成長していく物語の始まり。陽子の中で生命力スイッチが入った瞬間があるとすれば、次の一文のような気がする。
"陽子の頭の中で、何かが猛烈な勢いで回転を始めた。こんな速度でものを考えたことは生まれて初めてかもしれない。"
馬車で揺られながらの、次の一言がいい。
"「そうかしら。あれは飾りものだけど、とても高価なものなんです」"
なんとかして剣を取り戻して逃げてやろうという策略家陽子。このあたりめっちゃ応援したくなる。
私がとても好きなのが、馬車を妖魔に囲まれる場面。ゴーストハントシリーズや屍鬼、残穢で見せてくれた秀逸なホラー描写がここにも。
"「無視しろ。山の中で人を喰らう妖魔は、赤ん坊の声で鳴くそうだ」"
"おああ、と赤ん坊の声がすぐ間近から聞こえた。それは明らかに近づいてきている。その声に応えるように、別の方向から鳴き声がする。あちらからもこちらからも鳴き声が聞こえて、馬車の周囲を取り巻くように張りつめた声が坂道に響き合った。"
"失踪する馬車の速度を意に介さないように、声はただ近づいてくる。赤ん坊ではない。子供ではありえない。"
姿は見えないのに、そこらじゅうから赤ん坊の声がする。ものっそい怖い。
戦う、戦う陽子。戦闘シーンの描き方も上手い。小野不由美はすごい。
"鞘と剣とは離してはならないと、そう言われたが、それは鞘にも何かの意味があるということなのだろうか。それとも、鞘には珠がついていたからだろうか。"
こういう丁寧な伏線の張り方も、見事だ。後の蒼猿の正体がわかる場面に繋がるところ。
剣は、鞘を失くしてすぐに暴走を始める。
刀身に幻が映る場面では、"高く水の音がした。洞窟の中で水滴が水面を叩くような音には聞き覚えがあった。"とある。やはり、陽子に妖魔が迫っている危険を夢で知らせていたのは水禺刀なのではないかな、と思う。
『月の影 影の海』上巻は、本当にハードモードだ。少女向け異世界ファンタジーとしてはハードモードに過ぎるくらい。異国で逮捕され、妖魔に襲われ、挙句の果てに「死ねば楽になる」なんて囁いてくる蒼猿が見える。まだまだハードモードは続く。